子どもの「しつけ」について

子どもの「しつけ」について

このタイトルは、このカテゴリーの中で一番難しいテーマだと認識しています。

その理由は、一人ひとりの親にとって、自分が育ってきた環境(ご自分の両親の年齢、親の生活水準、自分の親が育ってきた環境、兄弟姉妹の数、その性別、その年齢差、育った地域、親の生き方、等々から複合的に作られてきた自分の考え方)が違うので、これが正しい「しつけ」であると決定付けが出来るものはない、のではと思うからです。

多様化が進み、一人ひとりの考え方を認め合うということは決して悪いことだとは思いませんが、市民生活の中で「子育て」を考えたときには、後述します「共有する感覚」が希薄になっていくような気がします。

ですから、父親・母親でもまったく同じしつけ方の考えを持っていることは、まず考えられません。
しかし、もしあなたのご両親が、自分たちの子育てについて納得の行くまで話し合って、問題が発生する度に、「では、我が家ではこういったしつけ方や育て方をしていこう!」と合意をされてあなたを育てられたとしたら、素晴らしいご両親で本当に幸運だったと思いますが、実際にはその様なご家庭は、ごくまれなのではないでしょうか。

当然、父親と母親の子どもに対するしつけの考え方が違ってくる訳です。そこから夫婦喧嘩が始まったりもします。

また、経済の高度成長で、大家族制度から核家族化が進み、結果的には閉鎖された感じの家庭になってしまい、家庭内のしつけ方も解りにくくなっていることも事実だと思います。

そして、社会の多様化が進むほど、それぞれの人間が持っている価値に対して判断(断定)を下す難しさを、私たちは実感しています。

思い起こしてみると、私が幼い頃には、近所の人や知り合いのおじちゃんやおばちゃんなど、
誰からもよく説教じみた話を聞くことが多かったように思います。
「〇〇ちゃん、そんなことをしたらアカンよ!」って。
誉められることもたまにはありましたが、大半はダメ出しでしたね(笑)。


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「常識」を英語では、「common sense」と言います。つまりは、「みんなが共有している共通の感覚」と直訳出来ます。

「しつけ」とは、本来、社会において大半の人達が持っている共通した価値判断と、それにもとづく行動のあり方、つまりはこの、「common sense」を学ばせるために行うことであるはずです。

しかしながら今は、社会の多様化の流れを認めようとする価値と、それらの多様化からくる行動の自由を良しとする風潮が、以前のような一律的な「しつけ」が成り立たなくなっている様に思います。まさに、何でもありの様相です。

近頃は、ほとんどそのような説教めいた話を聞く機会なんて見受けられません。
今の大人たちは、「おかしい!」と思っても、キレられたり、モンスターペアレントと関わりたくないとか、ケガをしたくないとかの理屈で、「言わぬがハナ」「見て見ぬふり」と、「見ざる・言わざる・聞かざる」を決め込み、自己保身のために誰も何も言わなくなってしまったのでしょうね。

おまけに、個人情報保護法が制定されてからは、特にその傾向が顕著になってきたように思います。
決してこの法律が悪いとは思いませんが、子どものことであっても簡単に人様のことに口をはさめなくなって来たのが現状ではないでしょうか。

どんどんと人との関係性が希薄になっていき、本当に心淋しいものがあります。
しかし、本来は「人との関わりの中で、人は成長する」ことを考えると、これで良いのかな?と疑問に感じます。

このような状況でありながらも、やはり人は人との関わりを求めるものなのでしょうね。
その証拠に、一日中スマホを手放せなくて、ネットやSNSで頻繁に人との繋がりを求めていますものね。皮肉なものです。(笑)
 
でも、やっぱり「自分の都合にあわせて」です。まさに「自分ファースト」です。
 
 

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ふたつの<じりつ>とは

かつての社会や街全体で子どもを育てるといった感覚がなくなっていき、「しつける」といった行動が機能しなくなると、当然その行動はそれぞれの家族の責任、つまりは親だけの責任とされてしまうようになってきました。

高度成長期以降は、個々の権利や主張が当然のことの様に強くなり、些細な子どもの喧嘩一つとっても大きな問題となってしまうケースも多くなりました。
その責任追及も非常に手厳しく、そうなるといきおいガードも固くなり、「他人が口を出さないでほしい!わが子をどのようにしつけようが、親の勝手でしょ!」と言われてしまうと、それ以上言えなくなってしまいます。

暴力や監禁でさえ「しつけ」という名の下に正当化されてしまうことが現実に起きています。

最近の、我が子に対しての暴力や、食事もろくに与えないで死なせてしまうといった虐待のニュースが、数々報道されるのを見るに付け、心が痛みます。
その時には決まって親の台詞として、「しつけとしてやった!」と言います。本当でしょうか?

単純に、「子どもが子どもを産むなよ!」という、ジョークだけでは済まない事態になっているのではないでしょうか。

本来、生き物が持っている「母性」すら、無くしてしまっているのでしょうか?

また、家庭でしつけられない分、学校の先生に、「しっかり怒ってやって下さいよ!」とか、公共の乗り物の中で親の言うことをきかない我が子に対して、「ほら、となりのおじちゃんがにらんで怒っているよ!」なんていうのはザラですよね。
思わず、「あんたが親でしょ!」と言いたくなります。

最近では、幼児の虐待や不幸な事件が起きると、「児童相談所は何をしていたんだ!」という叱咤も聞こえてくる有様です。

これらを見るにつけ、親はどう自分の子どもをしつけたら良いのかが判らなくなっているのではないでしょうか。

「しつけ」とは、誰のために、何のために、するものなのか?

「しつけ」というのは、子どもが社会人として成長したときに、思慮分別をわきまえた一人の人間として、一人前に世の中で生きていけるためのものだと思います。

成人式を迎えたからと言って、いきなり大人になれる訳ではありません。
小さい頃からの「教育」に含まれる「しつけ」によって、子どもの頃から徐々に成長と共に体得していくものだと思います。

では、一人前になるための「しつけ」の内容とはどのようなものでしょうか?

私は、この相談を受けたとき、二つの<じりつ>を話しています。

「自立」と「自律」です。

「自立」とは、基本的には人に頼らず、しっかりと自分の足で立って自分を養うことです。
「自律」とは、自分を自己管理して自らをコントロールすることです。

母親として、愛する自分の子どものために、
「自立」させるために何を伝えなければならないのか、
「自律」出来るためにはどういうことを教えなければならないのか、
を問われているのではないでしょうか。

そして、世の中で大人として通用している私たち一人ひとりも、
この二つの「じりつ」が出来ているのかどうか、
命ある限り学び続けなければならない、人生の課題なのかも知れません。
 
 

さて、あなたの子どもさんへの「しつけ」は?

そして、あなたご自身の「しつけ」は如何でしょうか?
 
 
 
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